
板東英二さんが2026年7月22日に慢性心不全のため86歳で永眠されました。元プロ野球選手で、タレントとしても国民的な人気を博した板東さん。
この記事では、「バラエティで見た面白いおじさん」の印象が強い板東さんが、実は甲子園で伝説を作った豪腕投手だったという事実や、プロ野球選手としての経歴を詳しくまとめました。野球ファンの方も、そうでない方も、ぜひ最後まで読んでみてくださいね!
板東英二さん訃報…86歳で永眠されました

板東英二:サンスポより
元プロ野球選手でタレントの板東英二さんが、2026年7月22日に慢性心不全のため亡くなりました。86歳でした。板東さんの強い希望で、葬儀は家族のみで執り行われたそうです。
公式サイトでは家族一同名義で「急な旅立ちとなり私どもも心の整理がつきませんが、晩年は、周りの皆様が最後まで本当にあたたかく見守ってくださったお陰で、家族に囲まれ穏やかな時間を過ごせましたこと、故人にとっては何よりの幸せだったと思います」とコメント。長きにわたるファンや関係者への感謝の言葉が綴られました。
板東さんは1940年、旧満州生まれ。終戦で徳島県へ引き揚げ、高校野球で甲子園の伝説を作り、その後プロ野球選手、野球解説者を経て、タレント・俳優としても活躍。波瀾万丈ながらも、多くの人に愛される人生を送られました。
甲子園の伝説!1958年夏の徳島商業での大活躍

徳島商業時代の板東英二:スポニチアネックスより
歴代1位の大記録!1大会最多83奪三振
板東英二さんの名前を野球史に刻んだのが、1958年夏の第40回全国高等学校野球選手権大会です。徳島県立徳島商業高校のエースとして出場した板東さんは、大会通算83奪三振という驚異的な記録を樹立しました。
この記録は現在でも破られておらず、「アンタッチャブル・レコード」と呼ばれています。ちなみに、1973年に江川卓投手が記録した60奪三振(4試合)が次点ですが、板東さんは6試合で83個。1試合平均で13個以上の三振を奪っていた計算になります。すごいですよね!
僕も学生時代に野球をやっていたので分かりますが、甲子園という大舞台のマウンドで常にストレートを軸にした真っ向勝負を貫くのは、技術だけでなく精神力も必要だと思うんですよね(たぶん…僕は行ってないので笑)。
板東さんの投げっぷりは、まさに「豪腕」という言葉がぴったりだったんですね。
準決勝の延長25回は今も語り継がれる死闘
板東さんの伝説の中でも特に有名なのが、準々決勝の魚津高校(富山)との延長18回引き分け再試合です。この試合で板東さんは延長18回を一人で投げ抜き、25個の三振を奪いましたが、0-0で決着がつかず引き分けに。
翌日の再試合でも板東さんは登板し、見事勝利して準決勝進出を決めました。しかし、実はこの甲子園の前、春季四国大会では延長16回を完投した翌日に延長25回を投げるという離れ業をやっていたそうです。計41回を2日連続で完投…現代では考えられない投球数ですよね。
この「投げすぎ」が問題視され、甲子園では延長18回までで打ち切り・引き分け再試合というルールが適用されるようになりました。板東さんの活躍が、高校野球のルールを動かしたとも言えますね。
決勝戦での投球と惜しい準優勝
決勝戦では柳井高校(山口)と対戦しましたが、惜しくも0-1で敗れ準優勝。それでも、徳島商業を決勝まで導いた板東さんの活躍は、地元徳島だけでなく全国の野球ファンの記憶に深く刻まれました。
プロ野球選手・板東英二の経歴を振り返る

ドラゴンズ時代の板東英二:マネーポストWEBより
1959年中日ドラゴンズ入団!プロ1年目から活躍
甲子園での活躍が認められ、板東さんは1959年に中日ドラゴンズへ入団しました。鳴り物入りでプロ入りした板東さんは、1年目から4勝を挙げる活躍を見せます。
当時のプロ野球は、まさに『巨人・大鵬・卵焼き』の時代。板東さんもジャイアンツキラーの中日のエースとして期待されていました。
オールスター3回出場の実力派投手
板東さんはプロ11年間の在籍中、オールスターゲームに3回出場しています。1960年の第2戦では、セ・リーグの4番手として登板しましたが、南海のカールトン半田選手に球宴史上初のランニング本塁打を打たれるという苦い思い出もあったそうです。
それでも、ファン投票で選ばれるオールスターに3回も出場できたのは、実力と人気の証ですよね。
現役通算の成績と引退までの道のり
板東さんの現役通算成績は、77勝65敗、防御率2.89。435試合に登板し、1220回2/3を投げ、748個の三振を奪いました。甲子園時代ほどの圧倒的な数字ではないものの、プロの世界で77勝を挙げるのは立派な成績です。
1970年に現役を引退。11年間のプロ野球人生を終えた板東さんは、その後野球解説者として第二の人生をスタートさせました。
板東英二のWiki風プロフィールと学歴

甲子園で始球式を務める板東英二:東スポWEBより
生年月日や出身地は?
- 生年月日:1940年4月5日
- 出身地:旧満州国虎林(終戦後に徳島県へ引き揚げ)
- 身長:177cm
- 投打:右投右打
- ポジション:投手
板東さんは旧満州で生まれ、終戦とともに徳島へ引き揚げてきました。戦後の混乱期を生き抜いた世代ならではの、たくましさが野球にも表れていたのかもしれませんね。
徳島商業高校での学生生活
1956年に徳島県立徳島商業高校へ入学した板東さんは、エースとして活躍。中学時代には61連勝という驚異的な記録も残していたそうです。
高校3年時の1958年夏の甲子園での活躍は、前述の通り伝説となりました。
野球を始めたきっかけ
実は板東さん、後年のインタビューで「野球はそんなに好きじゃなかった」と語っていたこともあるそうです。しかし、猛練習を重ねるうちに実力がつき、運よく甲子園に出場できたとのこと。
努力を積み重ねた結果が、あの伝説的な記録につながったんですね。まさに「継続は力なり」を体現した人生だと思います。
タレント・俳優としての第二の人生

映画「あ・うん」ですっかり映画俳優になった板東英二:music.jpより
野球解説者からバラエティタレントへ
引退後は野球解説者として活動していた板東さんですが、次第にバラエティ番組にも出演するように。その飾らないキャラクターと独特のトークで、お茶の間の人気者になっていきました。
「マジカル頭脳パワー!!」や「世界ふしぎ発見!」など、多くの人気番組にレギュラー出演。野球選手時代とはまた違った形で、国民的な知名度を獲得しました。
映画「あ・うん」で最優秀助演男優賞を受賞!
タレントとしてのイメージが強い板東さんですが、実は俳優としても高い評価を受けているんです。1989年の映画「あ・うん」では、第13回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞と日刊スポーツ映画大賞助演男優賞を受賞しました。
芸能界での多才ぶりが、この受賞からも分かりますね。
ゆで卵好きキャラで国民的人気に
板東さんといえば「ゆで卵」というイメージが強く定着していますよね。新幹線の新大阪〜東京間でゆで卵を6個食べるというエピソードは、バラエティ番組でも何度も取り上げられました。
実はこの「ゆで卵好き」には感動的な理由があります。幼少期、貧しかった板東さんの家庭では、母親が「ごめんね」と言いながらオコワとゆで卵を用意してくれたそうです。プロ野球選手として稼げるようになっても、実家では同じメニューで迎えてくれた母親への思い出が、ゆで卵好きの原点だったんですね。
板東英二さんの功績を振り返る声

バラエティでも活躍した板東英二:シネマトゥデイより
SNSやメディアでは、板東さんを偲ぶ声が多く寄せられています。
- 「甲子園の伝説を作った豪腕投手」
- 「お茶の間を笑顔にしてくれたタレント」
- 「誠実で愛される人柄」
- 「ただの面白いおじさんかと思ってたら意外とスゴかった笑」
など、様々な角度から板東さんの功績が語られています。
僕自身も、板東さんの伝説はうっすら聞き齧りながもやっぱり『バラエティで見る面白いおじさん』というイメージでしたが、今回調べてみて、甲子園での偉大な記録やプロ野球選手としての実績には、改めて驚かされました。
地道な努力を重ねて頂点を目指す姿勢は、野球だけでなくタレント業でも変わらなかったんでしょうね。
まとめ:甲子園のヒーローは永遠に語り継がれる

時折試合前の練習に顔を出していた板東英二:東スポWEBより
板東英二さんについて、この記事で分かったことをまとめます。
- 2026年7月22日に慢性心不全のため86歳で永眠
- 1958年夏の甲子園で1大会83奪三振の歴代1位記録を樹立
- 準々決勝の延長18回引き分け再試合は伝説の死闘
- 中日ドラゴンズで11年間プロ野球選手として活躍(77勝65敗、防御率2.89)
- オールスターに3回出場
- 引退後は野球解説者、タレント、俳優として活躍
- 映画「あ・うん」で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞
- ゆで卵好きキャラで国民的人気に
板東英二さんの豪快な投げっぷりと、人を笑顔にする温かい人柄が、少しでも伝わっていれば嬉しいです。甲子園の伝説は今も破られておらず、これからも野球史に刻まれ続けるでしょう。
板東さんの新しい情報が入ったら、また追記していきますね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

コメント